『1973年のピンボール』を読んで · 読後エッセイ
工場の煙突と、あの頃の気分――『1973年のピンボール』
近所の工場の煙突。家の前の塀。愛犬と歩いた緑道。部屋の天井。
村上春樹の小説の話なのに、思い出すのはそんなものだったりする。小説に登場した風景ではない。僕自身が暮らしていた場所の、何でもない景色だ。
『1973年のピンボール』を読んだのは、『風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』『ノルウェイの森』など、村上春樹を何冊か続けて読んでいた頃だった。
あの頃、少し憂鬱だった気がする。何となく気分が乗らない。その気分でこの本を選んだのか、本の印象に引っ張られて過去をそう思い出すのか。今となっては分からない。
作品には哀愁があった。空虚さも。落ち葉を見るときのような、季節が過ぎていく気配がある。
双子がいるのに、どこか寂しい
「僕」と一緒に暮らす双子は、そこに自然にいる。でも、どこか現実から浮いているようにも見える。
その時間がいつまでも続くとは思えない。
直子を失った「僕」の中では、誰かと一緒にいることが、そのまま寂しさを埋めてくれるわけではないのかもしれない。
ピンボール台を探す筋も覚えている。ただ、出来事の順番を細かく説明するより、もう戻ってこないものを思いながら暮らす、あの感触のほうが強く残った。
明るい気分になる小説ではない。でも、嫌なわけじゃない。沈んだ気分のときに、無理に励ましてこない本のそばにいたくなることもある。
記憶は本と一緒に残っていた
工場の煙突も緑道も、この一冊にだけ結びついているとは言えない。同じ時期に読んだ村上春樹の本が、当時の気分や景色と一緒くたになっている。
それでも、本を思い返すと景色が戻ってくる。
筋を全部覚えているわけではない。むしろ細部は薄れてしまった。なのに、自分の部屋の天井みたいなものが、いつまでも残っている。
おかしなものだ。
『1973年のピンボール』は、物語だけでなく、あの頃の自分まで思い出させる本になっている。
この記事で扱った本
- Amazonで見る
1973年のピンボール