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『般若心経、心の「大そうじ」』を読んで · 読後エッセイ

手放すことと、諦めることは違う――名取芳彦『般若心経、心の「大そうじ」』

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仏教に興味を持ち、般若心経についての本を何冊か読んでいた頃がある。

お寺に足を運んだり、お経を覚えたりしていた時期でもあった。

最初は、般若心経に書かれている言葉の意味を知ることが面白かった。けれど、関連する本を読み進めるうちに、そこにある考え方を、日常生活ではどう受け止めればよいのかにも興味が広がっていった。

名取芳彦の『般若心経、心の「大そうじ」』も、そんな流れで手に取った一冊だった。

難しい仏教の教えが、普段の悩みや物事の見方とつながっている。

遠い昔の思想を学んでいるつもりが、実は自分の身近なことを考えている。その意外な近さが面白かった。

この本を読んで印象に残っているのは、物事の見方を変えることで、心の負担も変わってくるという考え方だった。

手放したいのに、手放せない

執着という言葉も、当時の自分には興味深かった。

何かを強く望むこと。思いどおりにしたいと考えること。すでに終わったことに、いつまでも心を向けてしまうこと。

そうした気持ちに振り回されないようにする。

考え方としては、よく分かる気がした。

けれど、実際には難しい。

特に、人と自分を比べてしまうときだ。

誰かが自分より先に進んでいるように見える。自分にはできていないことを、別の誰かが実現している。

そんなとき、焦りや劣等感が生まれることがある。

他人と比べても仕方がない。

そう思っていても、気持ちが先に動いてしまう。

比較することが、原動力にもなる

ただ、人と比べることを、すべて悪いものとして考えるのも違う気がする。

自分よりできる人を見ると、悔しいと思うことがある。

でも、その気持ちが、もっと頑張ろうという原動力になることもある。

自分もああなりたい。今よりできるようになりたい。

そうした気持ちがあったからこそ、努力してきたこともある。

では、どこからが向上心で、どこからが執着なのだろう。

その境目は、簡単には決められない。

何かを目指すことと、その結果にとらわれすぎることは、同じではないはずだ。

目標に向かって努力することまで手放してしまえば、何も望まないことが理想になってしまう。

少なくとも、僕はそうありたいわけではない。

自分ができることには力を尽くしたい。

一方で、自分ではどうにもならないことや、他人の人生まで思いどおりにしようとしても仕方がない。

その違いを理解していたいと思う。

分かったつもりでも、また悩む

この本を読んだ頃から、ずいぶん時間が経った。

若い頃に比べれば、人と自分を比較することも少なくなったと思う。

それでも、完全になくなったわけではない。

頭では分かっているのに、同じようなことで悩むことがある。

ただ、年齢を重ね、いろいろな経験をしてきた今のほうが、当時読んだ教えの意味を理解できる部分もある。

思いどおりにならなかったこともある。

努力したからといって、必ず望んだ結果になるわけではないことも知った。

自分では変えられないものがあるということを、知識ではなく経験として感じるようになった。

同じ言葉でも、読む時期によって受け止め方は変わるのだと思う。

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