翻訳が変わると、少年の声も変わる――『キャッチャー・イン・ザ・ライ』J.D.サリンジャー
村上春樹の翻訳で読んでみたかった
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を手に取ったのは、海外文学の有名作として一度は読んでおきたかったことと、村上春樹が翻訳していたことが大きかったと思う。
原題は『The Catcher in the Rye』。日本では長く、野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』として親しまれてきた作品である。それを村上春樹が新たに訳し、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』という題名で刊行した。
僕は村上春樹訳だけでなく、野崎孝訳も読んだ。
世の中の「インチキ」が我慢できない少年
主人公のホールデン・コールフィールドは16歳。通っていた学校を退学処分になり、家へ戻るまでの数日間をニューヨークで過ごす。
大きな事件が次々に起きる小説ではない。
街を歩き、人と会い、ホテルに泊まり、酒を飲もうとし、昔の知り合いに連絡する。その間ずっと、ホールデンは周囲の人間や世の中について語り続けている。
彼が特に嫌っているのは、大人たちの建前や偽善である。
本心ではない言葉を口にする人。体裁ばかり気にする人。相手によって態度を変える人。ホールデンは、そうしたものにひどく敏感で、少しでも嘘くささを感じると容赦なく切り捨てる。
その見方は極端だし、ホールデン自身も決して素直で立派な少年ではない。彼も嘘をつくし、相手を見下し、自分勝手に振る舞う。それでも、彼の苛立ちには妙な説得力がある。
その反発が、皮肉と悪態の多い独特の語り口になっている。
村上春樹訳と野崎孝訳
この小説は、何が起きるか以上に、ホールデンがどのように語るかが大きな意味を持つ作品だと思う。
村上春樹訳には、村上春樹の文章らしいリズムがある。言葉が比較的すんなり入ってきて、ホールデンがすぐそばで話し続けているように読めた。海外文学に身構えることなく読み進められたのは、この訳の読みやすさも大きかったと思う。
一方で、野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』には、また別のホールデンがいる。
細かな訳文を並べて優劣を決めたいとは思わなかった。同じ英語から生まれた2つの日本語なのだから、違っていて当然である。むしろ、その違いによって、一人の人物を別の方向から見られることが面白かった。
題名もそうだ。
『ライ麦畑でつかまえて』という日本語には、どこか物語を呼びかけるような響きがある。それに対して『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、ホールデンがなりたいと願ったものの名前を、そのままこちらへ差し出すように感じる。
共感よりも、少し離れた場所から
この小説を、自分自身の青春と重ねて読んだわけではなかった。
ホールデンの苛立ちを、自分も同じように感じていたと思ったわけでもない。アメリカの学校やニューヨークの街を背景にした、一人の少年の青春小説として少し距離を置いて読んだ。
だからこそ、彼の反抗心そのものよりも、その語りが生み出す独特の空気が残ったのかもしれない。
人と会いたくて連絡するのに、実際に会うと相手の嫌な部分ばかりが目につく。誰かに分かってほしいように見えるのに、近づいてきた相手を自分から遠ざける。
賑やかなニューヨークを歩いているのに、ずっと一人でいるように感じる。
ホールデンは言葉数が多い。次から次へと他人を批評し、冗談を言い、悪態をつく。それなのに、その声の奥には乾いた孤独がある。
僕の記憶に残っているのは、特定の場面というより、その孤独な空気である。