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『カカシの夏休み』を読んで · 読後エッセイ

あーあ、ほんと困っちゃうねえ。さて。――『カカシの夏休み』を読んで

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重松清の『カカシの夏休み』を読んだのは、ずいぶん前のことだ。

3つの物語が収められた短編集だったことも、それぞれの細かな筋書きも、今ではかなり曖昧になっている。

それでも、表題作に出てきた「ダムに沈んだ故郷」だけは覚えている。

帰りたくても、故郷そのものがもうない。

その寂しさが、どこか自分と重なったのだと思う。

故郷は、場所だけではなかった

私の故郷は、ダムに沈んだわけではない。

ただ、20歳を過ぎる頃には、家族がそろって帰る家はなくなっていた。

写真も、昔使っていたものも、懐かしさにつながる品は何も残っていない。

さらに、幼い頃に暮らしたマンションも、跡形もなく消えていた。

区画が変わり、以前とは違う角度で別のマンションが建っている。たしかにそこで暮らしていたと、手に取っても、目で見ても確かめられるものがない。

残っているのは、自分の記憶だけだ。

だから、昔住んでいた街を訪れることはできても、そこへ「帰る」ことはできない。

考えてみれば、故郷とは住所だけを指すものではなかった。

家族が同じ家で暮らしていたこと。自分がまだ子どもだったこと。毎日顔を合わせるのが当たり前だったこと。

場所と家族と時間と、その頃の自分。

それらが全部重なって、故郷になっていた。

あの頃と同じ家族を、同じ時間の中へ戻すことはできない。

そのうえ、記憶まで薄れてしまったら、本当に何も残らなくなる。

戻りたいわけではない

もう一度あの頃へ戻りたいのかと聞かれれば、そうではない。

過去は過去として、今の家族や暮らしを大切にしたいと思っている。

ただ、懐かしい。

そして、戻れないことよりも、忘れてしまうことが怖い。

時間がたつと、記憶の輪郭も少しずつ薄くなる。

本当にそこで暮らしていたのか。あの部屋はどんな形だったか。家族はどんなふうに笑っていたか。

思い出そうとしても、以前ほど鮮明には浮かばないことがある。

故郷を失うというのは、帰る場所がなくなることだけではない。

そこにいた自分まで、少しずつ遠くなっていくことなのかもしれない。

何重にも覆っているもの

自分の中に脆い部分があることは、分かっている。

だから普段は、そこを何重にも覆って暮らしている。

家族について考えすぎなくても、日常は過ぎていく。仕事をして、食事をして、眠り、また朝を迎える。

わざわざ覆いを剥がす必要もない。

ところが、重松清の物語を読むと、それが一気に氷解してしまう。

誰にでもありそうな家族の日常を読んでいるうちに、普段は見ないようにしている自分の感情まで、むき出しになる。

家族という言葉に敏感な、訳ありな自分の裸の心に、辛くも沁みてくる。

だから困る。

涙が出る。

さめざめと泣きながら、昔の家族や、もう帰れない家や、そこにいた自分のことを思う。

そして、ひとしきり泣いたあとで思う。

あーあ、ほんと困っちゃうねえ。

さて。

そうやって本を閉じ、また日常へ帰っていく。

過去には帰れなくても、今の自分には、帰っていく暮らしがある。

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