読んでよかったとは言えない。それでも忘れられない――『疾走』を読んで
重松清さんの小説には、傷ついた家族がよく登場する。
すれ違ったり、離れたり、ときには壊れてしまったりする。それでも最後には、家族や誰かとのつながりに、わずかな温かさが残る。私にとって重松さんは、そんな物語を書く人だった。
だから『疾走』は異色だった。
主人公のシュウジには、次々と逃げ場がなくなっていく。
何か一つを乗り越えれば状況がよくなるのではない。不幸が別の不幸を呼び、差し伸べられたように見えた手さえ、安心してつかむことができない。
読んでいるこちらは、どうにか救われてほしいと願う。
けれど、物語はその願いに簡単には応えてくれない。
シュウジの境遇は、私自身とは遠い。それなのに、彼の孤独だけは、こちらへ直接流れ込んできた。
孤独、孤独、孤独。
そばに誰もいない孤独。
人がいても、誰にも理解されない孤独。
家族がいても、帰る場所がない孤独。
助けを求めても、その声が届かない孤独。
ただ一人でいることとは違う。誰かとつながりたいと願いながら、つながるための道が一つずつ閉じていく。その息苦しさが、物語の最初から最後まで続いていた。
「誰か一緒に生きて下さい」
この言葉は、希望というより、祈りに近い。
一人で生きたくない。ただ誰かにそばにいてほしい。その願いは、人間にとってごく当たり前のもののはずなのに、『疾走』の中ではあまりにも切実で、遠い。
読み終えたあと、すぐには日常へ戻れなかった。
感動したとも、悲しかったとも、簡単には言えない。もっと重く、形のないものが残り、しばらく物語に心を持っていかれた。
本を読んでよかったと思うとき、そこにはたいてい、何かしらの喜びがある。
新しいことを知った。心が温かくなった。自分の悩みが少し軽くなった。明日からまた生きていこうと思えた。
『疾走』には、そういう分かりやすい読後感がなかった。
だから、この本を読んでよかったとは、今も言い切れない。
もう一度読めば、当時とは違うものが見えるのかもしれない。けれど、あの暗さにもう一度引き込まれることを思うと、手を伸ばすのが怖い。
内容の細部は、すでに薄れている。
それでも、救いを求めて走り続ける少年と、幾重にも重なった孤独は、今も残っている。
温かい家族の物語を書く重松清さんが、ここまで救いの見えない世界を描いたこと。その世界を上下巻にわたって読み切り、しばらく抜け出せなくなったこと。
忘れたい本ではない。
読み返したい本でもない。
ただ、忘れることのできない本なのだ。