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『蜜蜂と遠雷』を読んで · 読後エッセイ・音楽

音響とは違う、何かが飛んでくる――『蜜蜂と遠雷』を読んで

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同じピアノを使い、同じ楽譜を弾く。それなのに、弾く人が変わるだけで、そこまで違うものになるのか。

恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』を読んで、いちばん驚いたのは才能の違いだった。

速く正確に弾けるとか、難しい曲を間違えずに弾けるとか、そういう技術の差だけではない。演奏する人によって会場の空気が変わり、聴く人の感情まで動いていく。

「音響とは違う、目に見えない衝撃波でも出ているのか?」

読みながら、半ば本気でそんなことを考えた。

日頃とは対極にある世界

私が日頃扱っているのは、もっと即物的なものばかりだ。

文章を書き、構成を考え、Webサイトや仕組みを作る。画面に表示されるものがあり、動くか動かないかがあり、直すべき箇所がある。良し悪しを説明するときにも、できるだけ理由を言葉にしようとする。

ところが、この小説で描かれる才能は、理由を並べただけでは届かないところにある。

一つの音が次の音につながり、やがて演奏者の内側にある景色まで会場へ広がっていく。音は耳に入っているはずなのに、受け取っているものは音だけではない。

精神的というのか、観念的というのか。自分が普段いる場所からはずいぶん遠い。その遠さに、かえって惹かれた。

演者が空気を変える瞬間

音楽とまったく縁がなかったわけではない。昔はバンドをやっていたし、今も演劇やクラシック、ライブには足を運ぶ。

舞台や演奏を見ていると、うまいという言葉だけでは足りない瞬間がある。演者が出てきただけで空気が変わる。こちらが身構える前に引き込まれ、気づけば目が離せなくなっている。

単純なはずの音の響きに、なぜか理由も分からず涙があふれることも多い。

臨場感や迫力と言えば近いのだけれど、それだけでもない。音量が大きいから圧倒されるわけでも、動きが派手だから心をつかまれるわけでもない。

『蜜蜂と遠雷』を読んで、以前から舞台で感じていた説明しにくい力を、別の角度から見せてもらった気がした。

才能とは、本人が高いところまで到達する力だけではなく、同じ場所にいる人の感情や、その場の空気まで変えてしまう力なのかもしれない。

トップレベルの人に見えている景色

私はピアノを弾けない。弾ける人への憧れは昔からあり、いつか時間ができたら習ってみたいと思っている。

けれど、自分が鍵盤を一つずつ覚えていく世界と、物語に登場する人たちが立っている場所は、きっとまるで違う。

トップレベルまで進んだ人には、同じ楽譜を見ても、私には想像もつかない景色が見えているのだろう。何を聴き、何を感じ、それをどう音に変えているのか。その一端でも、客席から確かめてみたくなった。

もともと演奏会には行くほうだが、この本を読んでから、トップレベルのピアノコンクールを実際に聴いてみたいと思うようになった。

演奏の違いを聞き分けられるかは分からない。それでも、会場の空気が変わる瞬間には立ち会ってみたい。

音として耳に届くものの、そのさらに向こう側に何があるのか。

もし本当に目に見えない衝撃波のようなものが飛んでいるなら、一度まともに受けてみたい。

この記事で扱った本