答えを仕入れただけでは、まだ自分の知識ではない――『思考の整理学』を読んで
検索やGPTに質問すれば、答えらしきものはすぐに返ってくる。
「へえ、そうなんだ」
その場では分かった気になる。けれど、それはまだ仕入れたばかりの情報だ。新鮮ではあるが、海の物とも山の物とも分からない。自分の中に根も生えていない。
『思考の整理学』を読んで、知識は手に入れた瞬間に自分のものになるわけではないのだと、あらためて思った。
答えを見つけるまでの時間は、ずいぶん短くなった。それでも、腑に落ちるまでの時間までは短縮できないのかもしれない。
半分首をかしげたまま、引き出しへ
本や人の話から何かを仕入れても、最初は分かったような、分かっていないようなことがある。
「まあ、そういうものなのかな」
半分首をかしげながら、とりあえず頭の引き出しにしまう。その時点では、まだうまく使えない。人に説明しようとしても、どこかで借りてきた言葉のようになる。
ところが、しばらく寝かせていると、日々触れる別の出来事と勝手に反応し始める。
「なるほど、あのときのあれは、そういうことか」
「こういう側面もあるな」
「あ、やはりそうか。いや、少し違うか」
最初に見えていた一面から、形も色も味わいも変わっていく。そうして少しずつ、自分の中に根を生やしていく。
仕事や風呂で、突然つながる
これは、意識して上手に寝かせているわけではない。
仕事で似た問題にぶつかったとき、以前しまった情報が急に顔を出すことがある。ずっと分からなかったはずなのに、目の前の現実と重なった途端、「あ、そういうことか」と合点がいく。
逆に、風呂や移動中のように、そのことを考えていないときにつながることもある。
考え抜いた末に答えへ到達するというより、頭のどこかで続いていた反芻が、急に一つの形を結ぶ。引き出しにしまったはずの情報は、どうやら中でおとなしく眠っていたわけではないらしい。
寝かせる。根を生やす。咀嚼する。反芻する。
言い方はいろいろあるけれど、どれも、仕入れたものが自分の一部になるまでには時間が要る、ということなのだと思う。
GPTで見つけた答えを、腹に落とすまで
GPTは、知らなかったことへの入口を一瞬で開いてくれる。自分だけでは思いつかなかった見方も示してくれる。
ただ、その答えを読んだ直後は、まだ他人の説明を借りているにすぎない。「へえ、そうなんだ」と頭に置き、意識を少し向けたまま、いったん腹で寝かせる。
その後、仕事で似た問題に出会ったり、別の人の言葉を聞いたりするたび、最初は平面的だった説明に少しずつ厚みがついていく。反対の例に出会えば疑い直し、別の側面が見えれば解釈も変わる。
そうやって時間と経験の中で醸成されたものが、あるとき突然、「なるほど」「あ、そういうことか」「だから、ああ言っていたのか」と腹に落ちる。
その瞬間、借り物だった答えが、ようやく自分の知識になる。咀嚼して、消化して、別の場面でも使える形へ変わる。消化(昇華)とは、たぶんこの過程のことなのだと思う。
GPTは考える時間をなくすものではなく、考える材料を早く届けてくれるものなのだ。そこから先は、自分の仕事である。
腑に落ちるまでを、急がない
分からないものを、分からないまま置いておくのは気持ちが悪い。それでも、すぐに結論を出さず、半分首をかしげたまま引き出しにしまっておくことにも意味がある。
仕入れたての情報は新鮮だ。だが、寝かせた知識には、自分の経験が染み込んでいる。
答えを得る速さと、理解が育つ速さは別である。
GPTで何秒で答えが見つかっても、自分の中で根が生えるには、それなりの時間がかかる。その時間まで省略してしまったら、知識はいつまでも借り物のままなのだと思う。
この記事で扱った本
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