『コインロッカー・ベイビーズ』村上龍|破壊したいほどの怒りと、愛されたいという願い
『コインロッカー・ベイビーズ』を読んだのは、もう20年ほど前になると思う。
手に取ったきっかけは、尾崎豊も影響を受けた作品だと、どこかで読んだことだった。
中学1年生の頃だっただろうか。学校帰り、ウォークマンで毎日のように尾崎豊を聴いていた。まさに尾崎世代だった。
それからずいぶん年月が経っても、尾崎の影響は残っていたのだろう。彼が読んだという小説なら、自分も読んでみたくなった。
そして実際に読んでみると、これがなかなか強烈な作品だった。
読んだ当時の細かな展開はもう曖昧だけれど、悲しさと興奮、そして何ともいえない虚無感が残ったことは覚えている。
村上龍の小説には、常識を壊してしまうような力がある。この作品にもそれはあった。ただ、印象に残っているのは暴力や破壊だけではない。
その奥にある、誰かに愛されたいという切実な願いだった。
コインロッカーから始まる人生
物語の中心となるのは、生まれて間もなくコインロッカーに捨てられた二人の少年、キクとハシ。
二人は成長するにつれ、それぞれの道を進んでいく。母親を探し求める思い、社会への怒り、そして巨大な破壊へと向かう衝動。物語は現実離れした方向へ、どんどん激しくなっていく。
村上龍らしい、容赦のない世界だ。
でも、僕が今も覚えているのは、そこにある孤独だった。
生まれてすぐに捨てられた人間が、自分の存在をどう受け止めるのか。誰かに必要とされたい、愛されたいと思うのは、あまりに自然なことだろう。
その願いが満たされないまま、途方もない怒りや破壊衝動へとつながっていく。
もちろん、境遇が過酷だからといって破壊が正当化されるわけではない。それでも、彼らが社会に向ける怒りには、どこか共感できる部分があった。
怒りの勢いに圧倒されながら、悲しくなる
この小説には、とにかく凄まじいエネルギーがある。
登場人物たちは普通の生活に収まってくれない。行動も感情も極端で、物語は暴力的な方向へ突き進んでいく。
読んでいるこちらまで、その勢いに巻き込まれるようだった。
先が気になって読み進める。興奮する。けれど、読んでいて楽しいだけではない。
悲しいのだ。
怒りや反抗に共感できるところはあっても、追い詰められた人間が破壊へ向かっていく姿には、やりきれなさも感じた。
本当は誰かに愛されたかっただけなのではないか。
そんなことを考えると、あの激しい物語が、ずいぶん違ったものに見えてくる。
もっとも、今となっては個々の場面を正確に思い出せない。こうした感情が、どの場面で生まれたのかまでは覚えていない。
それでも、暴力的な展開への興奮と、その背後にある悲しさが一緒に残っている。
そこが、この作品の忘れがたいところだと思う。
『半島を出よ』とは違う面白さ
僕は村上龍の、社会秩序がひっくり返されるような小説が大好きだ。
特に『半島を出よ』は好きな作品の一つで、少数の勢力が既存の権力を翻弄する展開には何ともいえない痛快さがある。
普通なら勝ち目がないはずの側が、強大な相手を揺さぶる。しかも、荒唐無稽なだけではなく、現実に起こりそうな怖さまである。
ああいう物語には強く惹かれる。
一方、『コインロッカー・ベイビーズ』について思い出すのは、勝ち負けや逆転の痛快さではない。
破壊へ向かう人間の内側にあるものだ。
激しく生きようとする力がある。その一方で、誰かに認められたい、受け入れてほしいという願いがある。
破壊するほどのエネルギーがありながら、その根底には孤独がある。
その組み合わせが、この作品を単なる過激な小説では終わらせていないのだと思う。
今なら、どう読むだろう
読み終えたときの感覚は複雑だった。
興奮はあった。悲しさもあった。そして、虚無感が残った。
だからこそ、今もう一度読んでみたい。
20年ほど前に読んだときと、今とでは、同じ物語に対する感じ方も違うかもしれない。
以前は圧倒されていた暴力や破壊の描写よりも、登場人物の孤独や愛情への渇望が、もっと気になるのではないか。
いや、読み返したら、まったく違うところが面白くなる可能性もある。
内容の記憶が曖昧な今、そこはわからない。
ただ、あの強烈な世界をもう一度体験したいという気持ちはある。
『コインロッカー・ベイビーズ』は、誰にでも気軽に薦められる作品ではないと思う。過激な描写も多く、好き嫌いは大きく分かれるだろう。
それでも、一度は読んでみてほしい。
暴力や破壊の奥にある、人間の切実な感情。それをどう受け取るかは、きっと読む人によって違う。
僕自身も、今読み返したら何を感じるのか、少し楽しみにしている。

