無事なら、牛丼を食って帰る――『重力ピエロ』と兄弟の距離
『重力ピエロ』を読んでいる間、私はずっと自分の弟のことを考えていた。
小説の兄弟と私たちでは、育った環境も、背負っている事情も違う。それでも、何かあれば互いの無事を気にする感覚や、言葉にしなくてもなんとなく通じる関係、踏み込みすぎない距離感に、何度も自分たちを重ねた。
ただし、私たちは普段から互いの世話を焼くような兄弟ではない。
頻繁に連絡を取るわけでもないし、何をしているのか詳しく聞くこともない。弟には弟の生活があり、私には私の生活がある。平常時には、それでいいと思っている。
ところが、いざ何か起きると、急に心配になる。
自分の片割れが、いなくなってしまうのではないか。
普段はほとんど意識していないのに、そんな恐怖が突然、現実味を帯びて迫ってくる。
病院からの帰りに食べた牛丼
以前、弟が病院へ運ばれたことがあった。そのときは病院へ駆けつけた。ずいぶん心配したはずなのだが、本人が目の前で元気そうにしているのを見たら、それ以上は何も言わなかった。
帰りに二人で牛丼を食べた。
「本当に大丈夫なのか」
「心配したぞ」
そんな言葉を口にした記憶はない。現に目の前で普通に牛丼を食っている。なら、まあ大丈夫だろう。私も普段どおり食べて、そのまま帰った。
兄弟愛を確かめ合うには、牛丼は少々つゆだくすぎる。
別のときには、私が出張している最中に弟が事故に遭った。ニュースを見て心配になったが、ひとまず無事だと聞き、それ以上は深く聞かなかった。詳しい話を知ったのは、しばらくたってからだった。
冷静だったというより、無事だと分かれば普段の距離へ戻ってしまうのだと思う。
兄弟だから何でも話すわけではない。普段から互いを気にかけているわけでもない。それでも、何か起きれば、自分の片割れを失うかもしれないという恐怖に苛まれる。
距離があっても消えないものがある。その存在を、非常時になって否応なく思い知らされる。
生まれる前から続いているもの
家族には、それぞれ積み重ねてきた過去がある。
大人になれば、兄弟は別々の仕事をし、別々の場所で暮らし、それぞれ好きなことを始める。もう同じ家にいた頃とは、まったく違う人生を歩いているように見える。
けれど、親から幼少期の話や、自分たちが生まれる前の事情を聞くと、それまで無関係に見えていた出来事が一本につながることがある。
「そういうことだったのか」
自分で選んだわけではない。好むと好まざるとにかかわらず、受け入れるしかない。そこには宿命と呼びたくなるようなものがある。
幼い頃の家庭に苦難があれば、兄弟はただ同じ親から生まれた者ではなくなる。同じ場所で同じ時代をくぐり抜けてきた、同胞であり、戦友のような関係になるのだと思う。
普段は意識しない。会えば昔のことを語り合うわけでもない。まして、互いに感謝を伝え合ったりもしない。
それでも兄弟の間には、幼少期から流れ続ける通奏低音のようなものがある。
表の旋律が変わっても
表に出ている旋律は、それぞれの人生だ。仕事も、家庭も、関心事も違う。その下で、同じ家に生まれ、同じ出来事を見てきたという低い音だけが、ずっと鳴り続けている。
『重力ピエロ』を読み終えて、兄弟とはこうあるべきだ、という結論に至ったわけではない。弟に電話をかけようとも思わなかった。
ただ、読んでいる間、弟のことが何度も頭に浮かんだ。
それだけで、この本を読んだ意味はあったのだと思う。
何かあれば駆けつける。無事なら、余計なことは言わずに牛丼を食って帰る。そして、またそれぞれの生活へ戻る。
少なくとも、私たち兄弟はそういう関係なのだ。
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